火事のできごとと今から

火事のあれこれの日記

火事後の解体100万円

地元から自分の家に帰ってきて、すぐに普通の日々に戻りました。

とは言え、まだ片付いていない実家の燃え跡の処理、それから母の次の住む場所をどうしようと考えると気持ちがなかなか休まらなくて、眠れない夜も増えました。

 

自分の家に戻ってきた後も、月に一度、母の様子を見に地元に帰っていたのですが、3回目くらいの時に、母からうざがられたので、頻繁に帰るのはやめました。

まぁ、私が一人で行くと、お金の話をされたりするので、あまり二人きりにはなりたくないのが本音ではありますが。

それでももう何年も、ゴミ屋敷と私を吠え続ける犬達に嫌気が差して、地元に帰るのなんて年に1~2回の上、せいぜい3日以上は帰省できていなかったから、一週間とかのんびり地元にいるのは久しぶりで、親友にもゆっくり会う事ができました。

火事によって、皮肉にも私はゆったりと帰れる場所ができたのです。

 

母は、実家の庭に残して、犬達の面倒を見に、臨時の部屋からは毎日実家に通っていました。

とりあえずは臨時なので、あまり物を増やさないようにと言っておいたけど、なんだかんだで母の友人達が持ってきてくれた物で、生活は困らないくらいにできていました。

そんな母の姿を見て、親戚の中には、楽しそうに新しい生活を満喫しちゃってると眉をひそめる人もいました。

 

燃え尽きた家の解体と処理の見積もりを業者に頼んでいたけれど、一ヶ月経ってもなかなか金額が出ませんでした。

問い合わせると、どうやらあの日見積もりを取りに来てくれた会社から、いくつかの解体会社に依頼を出しているみたいだけど、火事の処理はあまりみんなやりたがらず、なかなか返事が来ないとのことでした。

ましてや、お金はいくらでも出すと言う案件ではなく、とりあえず金額の見積もりを出して欲しいと言ううちの状態では、更に困難を極めているようです。

 

結局見積もりが出たのは、それから3カ月後くらいでした。

金額を見ると、約100万。恥ずかしながら、今の我が家には頭を抱える金額でした。

となると、自分達で少しずつ片付けていくしかありません。

とは言え、それも気の遠くなるような話です。

 

誰のせいでこうなっているのか、母はわかっていないのかと思うくらいに、私達のその話を軽く聞き、100万払っていっそ綺麗にしてもらうかとこちらが言えば「そうだな!その方がてっとり早い」(お金は自分で出せないくせに)

でも、100万を払う余裕があまりないから、やっぱり自分達でこつこつとやろうかと言えば「そうだな!お金がもったいない」(とは言え、自分は片付けに参加できないくせに)

と言う状態で、まさに適当な無責任人間でしかありませんでした。

 

いったん、お金を払ってやってもらおうかと言う話になったのですが、それも結局、業者から解体会社に話を進めてもらおうとすると、できるのは10ヵ月後くらいになりますとの返事があり、それもお約束できるものではない、こちらの空いた時に行かせてもらうことになると言います。

やっぱり、火事の後処理は、かなり嫌がられているようです。

見積もりを取りにきてくれた業者の人は、申し訳ない。自分も無償で出来る限り手伝わせてもらうとまで言ってくれましたが、それは気持ちだけいただいておくことにしました。

 

という感じで、結局火事の後始末は自分達でコツコツとやっていくことになりました。

土地の持ち主であるおじさんとの話し合いの結果、できたら鉄くずだけはどうにか処理してもらいたいと言う話にまとまりました。

 

と言う事で、少しずつ、自分達での片づけを再開しました。

旦那と二人で、まだ立ったままだった家の柱を切り、屋根を落とし、鉄をはがしました。

自分で自分の育った家を壊すのかという気持ちも湧き出てきたりもしたけれど、なんだかんだでそれが家への恩返しのような気もしました。

ゴミ屋敷になってしまってからは、心の錘でしかなかったけど、まだ私が幼かった頃、この家が綺麗だった頃の思い出はそれなりにあります。

 

そしてレンタカー屋から軽トラックを借りて、個人の鉄くず処理会社に運びました。

それらは、買い取ってもらえるのです。

 

母がもらっては溜めこんだ電化製品やら色んなものの鉄くずが山のようにあり、庭にも放置されたままだったので、とにかく鉄くずゴミも凄い量です。

例えば自転車は乗れなくなって放置された物が3台くらい、同じく壊れて使えなくなったストーブなんて6台くらい、他にもブラウン管テレビや電子レンジなどなど・・・

それらを車で5分くらいのところにある処理会社に運び入れるのですが、結局満タンに載せて5往復してもまだ捨てきれませんでした。

 

これまた皮肉にも、それらが溜まってなんとか地元へ帰って来るのに借りたレンタカーと地元で借りた軽トラ代くらいにはなりました。

でも、まだまだ鉄くずの後始末には時間がかかりそうです。

地元が近ければ、コツコツと通えるのですが、車で片道3~4時間の距離なので、そうもいかず。

本当に何年かかるかと言う感じです。

 

火事からすっかり元気を取り戻した母は、それらの手伝いこそ足腰が痛くてできないものの、私達のごはんを作ることには丹精込めて用意してくれました。

 

旦那はすっかり、母に対して不快な気持ちも強くなり、火事の前ほどは優しく接しられないような感じです。

でも、母が明らかに間違ったことや人の悪口を言いだすと、面と向かって怒ってくれるので、母も少しは旦那に対しての態度を改めるようにはなりました。

 

燃え跡からは、私の物はほとんど燃えてしまっており、懐かしさに浸れる物はほとんど見つかりませんでしたが、またひとつ良いエピソードがありました。

もう20年ほど前に亡くなってしまった、母の姉の一人、つまり私のいとこのおばさんの中学時代の卒業証書がおばあちゃんの箪笥から出てきたのです。

それを、おばさんの息子である私のいとこのお兄ちゃんが子供のY君を連れて顔を出してくれた時に渡しました。

お兄ちゃんはそれを受け取ると凄く嬉しそうにしてくれました。

しかもお兄ちゃんの息子のY君が、「それおばあちゃんの?」と言った言葉に、私は凄く心が明るくなるのを感じたのです。

おばさんが亡くなった時、まだY君は生まれていなかったため、実際は、おばあちゃんと呼ばれたことはなかったのです。

それが見つかった時、私が乾かしていたら「そんな物もらったってM(いとこのお兄ちゃん)もしょうがないだろう。捨てちゃいな。」と母は言ったけど、その通りにしなくて良かった。

母は目の前のそんな光景に、何事もなかったかのように、「とっておいて良かったよ」と平然と言い放ち、またしても私と旦那を秘かに呆れさせました。

 

でも、思いもよらない僥倖ってこういうことを言うのかもなと思いました。

なんだかまたちょっと、長年かかった約束を果たせたような、そんな救われた気持ちになれた出来事でした。

 

 

 

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10日間が過ぎいったん自分達の家へ

最終日、ひとまずいったん自分達の家に帰ります。

母は、臨時で与えてもらった部屋での一人暮らしが始まります。

お世話になった親戚の家に挨拶をして回りました。でも、一番迷惑をかけた母は、ほとんど車から降りてきませんでした。

会わせる顔がないのかもしれないけど、今は必要なことなのに。

どこまでも、世間知らずです。

母が普段使っている自転車、火事の時は庭に停めてあったそうで、被害は免れたかなと思いきや、サドルも若干溶け気味のところがあったりで、心配なので自転車屋に見せに行くことにしました。

案の定、乗ってみるとタイヤもなんかおかしいようで、取り替えることになりました。

ひとまず、離れる前に、今後もお世話になる母の普段の足を完璧にすることにしました。

母にも、だいぶ疲れが出てきているようで、新しく買ってあげた杖で歩く姿を見ると、やっぱり心配になります。

 

そして地元を離れてからこんなにも長く帰ったことはなかったので、こんなこともあり私はすっかりホームシックのようになってしまっていました。

いざという時に助けてくれるいとこもこの街に住んでいて、親友もここに住んでいる。

なのになんで私はこの街に住めないんだろう、と。

でも、そんな思いは今までのように心に押し込めるしかないのです。

 

旦那はそんな私とは真逆に、とにかく自分達の家に帰れることが嬉しくてたまらない様子でした。そりゃそうだよなと思いました。

 

母を自転車屋に送り届けて、そこで解散しました。

手を振る母の姿はなんだか清々しく、あんなに苛立つことも多かったのに、なんだかこの時だけは、火事なんて起きてなくて、全部が元通りに戻れたような不思議な感覚に陥っていました。

 

来た道を私と旦那は引き返して、家に帰りました。
家の中は、10日前のまま。洗濯機には回したままの洗濯物がカピカピに乾いていました。
冷蔵庫の中のものは、いくつか傷んでおり、賞味期限切れがたくさん。料理途中のものもあり、それらをやっと捨てられました。

あの時の私は、このいつも通りの生活の途中で、当たり前のようにその日常の続きをするんだと思ってたなと思いながら、ひとつひとつ途中だったものの続きをしました。

 

大事にしていたベランダの植物は枯れてしまっていました。
だけど、それでも心の底から思うのは、やっぱり母が無事でよかったということです。

こうして、母の文句を言えるのも、母が怪我一つなく無事でいてくれたから。本当に良かったと改めて思いました。

あの日、持っていくのを忘れてしまった持病の薬を10日ぶりに飲む。

まだまだ元のようには戻らないだろうけど、少しずつまた日常を取り戻したいと思いました。日常が送れるってありがたいと痛感しました。

 

旦那が、燃え跡からあるものを見つけて持って帰っていました。

それは、実家を母が建てた時の設計図です。

最初に私の部屋だった場所の一部に、ピアノのための床補強と書かれていました。

初めてそれを見て、今更ながらちょっとだけ母の愛を感じました。

ピアノ、辞めてしまってごめん。本当にもっと、私ができる娘だったら良かったのにね。

 

母が新居で一人暮らし開始から2日目。毎晩1日の報告電話をくれています。
母に渡したらくらくフォンは、その日の歩数やバッテリーの残り具合なんかを1日1回、自動的にメール送信してくれる機能があり、安心です。凄くありがたい機能です。


今日は精力的に動いてたみたい。
気力がとにかく大事だから、良かった。

 

そう思いながらも、まだまだ火事の後始末は、続いて行きます。

 

 

 

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火事ゴミの無理難題

ひとまず、地元にいられるタイムリミットが迫ってきていました。

朝、いなくなった犬を探してくれているいとこから連絡が入り、付近をかなり探したけどやっぱりいないから、保健所に念の為連絡してみたらどうかとアドバイスをされました。

それを母に言うと、「なんでお前が電話してくれないんだ」と逆ギレされました。

もうずっと、母に対しては、しょうもないことばかりです。

 

市役所から依頼を受けて、リサイクルセンターの人達がやってきました。同時に、昨日いとこの親友が依頼してくれた解体業者の人も見積もりを取りにやってきてくれました。

市のリサイクルセンターには、火事ゴミは無料で引き取ってもらえるとのことでしたが、持ち込みはもちろん自分達で行わなくてはならないこと、持ち込みのルールも15センチ以内に切って持ち込まないと受け入れられないとか、燃えた木材に関しては、ダイオキシンなどが出ないか自分達で検査も依頼しないといけないらしく、もちろんその費用は自分達持ち。そんな感じで、やれるもんならやってみろよと言われているかのような、とにかく無理難題を押し付けられている感じでした。

 

とにかく我が家にはお金がないのです。

火災保険も入っていなかったため、助けてくれるものも何もないのです。

本当に頭を悩ませる問題です。

土地の持ち主のおじさん達は、そのままにしておいても構わないとは言ってくれてはいるけど、だからと言ってすっかり甘えるわけにはいかず、誠意は見せる必要は、人としてあります。

 

解体業者の人は、改めて金額を出して連絡しますと帰って行きました。

 

ひとまず旦那の仕事の関係もあり、いったん自分達の家に戻らなければいけないので、地元にいるのは最後の夜です。

結局、シャワーだけを浴びに母の臨時の部屋には行っていたものの、寝泊まりはおじさんの別荘でずっとしていました。片付けなどにすぐ現地に行けるので、その方が良かったからです。

母には、慣れるためにも臨時の部屋に行ったらと言いましたが、やっぱり一人になるのは寂しいらしく私達と一緒におじさんの別荘に寝泊まりしていました。

 

翌日は、かなり大型の台風で一日中外にも出られませんでした。

強い風が吹くたび、おじさんの家から隣の我が家の燃え跡をのぞくと、まだ数枚のトタンが屋根にくっついて揺れていました。

吹き飛ばないようにロープで縛って応急処置をしたけれど、やっぱり第二次被害を生まないように祈るしかなかったです。

そして、母が真っ先に寝てしまった後、ついに旦那が母の文句をつらつらと言い出しました。

それまでもたびたび、二人になった時は思わず口にしていたけれど、とにかく溜まりに溜まって堪え切れなくなったようで、ずーっと喋り続けています。

旦那は正直、一番と言うくらい動いてくれていました。

自分の勤務先の会社とのやりとりもしながら、色んな手続き類は全て率先してやってくれ、家の解体や片付けなんかも手伝ってくれました。

だからこそ、文句が出るのも当然だと思います。逆の立場なら、私だったら逃げ出していたかもしれないくらい、母は何に関しても頼りっきりです。

やってもらっていることを感謝は口にしているものの、ビニールハウス事件から始まり、ところどころで譲らない性格が、普段は温厚な旦那をイラつかせることも増えてきました。


本当だったら、自分の親が悪く言われるなんてキレ返したい。でも、全て言われる通りだし、私としては旦那の愚痴の捌け口くらいにならなくてはと思います。

だけど、あまりにも喋り続けられるので、辛くてトイレに行くと中断させてしまいました。

情けないです。自分も。自分の親なのに。

 

 

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家の解体について業者に見てもらう

翌日に迫っている台風がまた、心配ごとの一つでした。

現場検証の日の帰り際に消防隊長さんが話してくれた、台風などによる二次災害がやっぱり心配です。

せめて、飛んで行ったりしないように、しっかりしたロープを買ってきて、それで固定をしました。

応急処置でできるのはそれくらいだけど、やらないよりはましだと思いました。

 

休憩している時に、あの部分も心配だから縛っておこうかと旦那と話していると、母がまたしても「犬に飛んでいったら可哀想だからな」と平然と言い、「自分の家の事よりも、よその家に被害を与えることを心配しなきゃいけないんだよ!」と旦那に怒られました。

とにかく本当に、母の頭の中には犬のことしかないのです。

ずっと母に優しくしていてくれた旦那もさすがに母に苛立つことが増えてきたようで、旦那にも本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 

またその後も、今まで家電話しか使ったことのなかった母に、らくらくフォンを買ってきて持たせることにしたのですが、その使い方を教えなければなりません。

でも母は、新しいことを勉強すると言う事が本当にできない、やる気もない人間です。

最初はこれからは、こうするしかないから頑張って覚えると言って意欲も見せていましたが、そのうちにめんどくさくなったらしく、教えようとしたり、実践させようとするこちらを拒否し始めました。

またしても旦那が苛立っているのがわかりました。

そのスマホだって、私達にしてみればかなりの出費です。ありがたさの欠片くらい見せてくれてもいいのに。

 

また、ある時には私の見た目について。

もはや髪の事など構ってられないくらい、汗水流して頑張って片付けている私に、「その髪型ださいよ」

とにかく安さ重視で臨時用に買ったズボンを履いていると、「それぱっつんぱっつんだな」と笑う。

”髪型ああしたらこうしたら?ズボンはもっとちゃんとしたやつ買って来れば?”

平然と笑いながら言ってくる母に、私も苛立つ。「そんなのどうでもいいよ!!」と言い返してしまいました。

 

喉元過ぎれば熱さを忘れる母。
犬のビニールハウス事件もそうでしたが、あの火事当日の潮らしさはすっかりではないもののほとんど元に戻っており、言葉でイラつかせられることも本当に増えてきました。

 

ちなみに、先日もらわれていった子の他に、もう一匹、メス犬が逃げ出したまま行方不明になっており、その子の事を、また別のいとこが探してくれていて、その子の詳細を聞こうと話を出しても、思い出したくないの一点張り。

それどころか、先日もらわれていった子が心配だと言いだし、私からすればその逃げ出した子が不憫で仕方がない。

 

布団をくれたおじさんが毎日私達3人分のごはんを作ったり買ったりして届けてくれているのですが、そのごはんを、肉体労働をしている私と旦那の分を平気でおばさんと食べてしまう母。(おばさんはまさかお前たちの分だとは思っていなかったと、母が薦めたらしい)

ちなみに母は、もちろん力仕事はいっさいやっていません。

ごはんもない私と旦那は、ごはん抜きで作業を頑張りました。

完全にイカれていると思います。

 

そしておじさんは犬達にも餌やりをしてくれているのですが、そんなおじさんから餌をもらっているのに放火魔の犬は、餌だけもらいおじさんに噛みつこうとしておじさんのズボンを破る始末。

こう言っちゃ最低かもだけど、本当に犬は飼い主に似ると思いました。

もう母に関する全てがハチャメチャです。

私の旦那は、よく逃げ出さないでいてくれるなと思いました。

 

いとこの親友が、解体ではないものの似ている仕事をしているらしく、業者に頼むといくらくらいかかるものかを下見に来てくれました。

アドバイスとしては、やっぱりなんとも言えないらしいです。どこまで業者に頼むのか、それによっても違ってくるし、あとは、難点なのは竹林が生い茂りすぎて、まずはそれを撤去しないと機材が入れないのでそれも必要になってくるだろうと言う事。
火事の被害が届いていない庭先も荒らしてしまうことになるとのことで。


こちらとしてはもはやゴミ屋敷だったし、竹だって勝手に生えているものだから、一気に破壊してくれて構わないけど、仕事としてやっている方としてはそうはいかないらしく。色んな手続きなんかもあるらしい。
結局またその人に、知り合いの解体業者を紹介してもらい、後日見積もりを兼ねて見てもらうことになりました。

その人もその人の知り合いも忙しい中、まだどうするかわからないことのために、友人だからという理由で優先的に時間を割いて来てくれているのです。
ありがたいのはもちろん、どこまでも色んな人に迷惑がかかっているのを思い知ります。


それなのに母は、もう過ぎ去ったことのような顔をしていました。

 

 

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火事の手続き書類が本当にややこしい

市役所から、赤十字から被災グッズが届いていますとのことで受け取りました。

大きなバッグの中に、簡易的に使えるものがあれこれ入っていて、これも凄くありがたかったです。

 

その次の日は、朝一で消防署に罹災証明書をもらいに行きました。

なんとか、おじさんの別荘には日は燃えうつらなかったけど、すすがついてしまっているので、保険がおりるそうです。

我が家は火災保険は入っていなかったので、保険関係には全く恩恵がありません。

でも、家の燃え跡のゴミを引き取ってもらうにあたっての手続きには罹災証明書はかなり必要です。

でも、前回も書いた通り、現在土地はTおじさんとTおばさんの物になっていて、それをわざわざ消防の人に話してしまったため、ここでまたややこしい問題が勃発しました。

 

消防隊長の人はそれならと我が家分とTおじさん分に分けて書類を2枚書かせました。

そしてそれがまた更に市役所でひと悶着することになったそうです。

市役所へはいとこのお兄ちゃんと旦那が行ってくれたのですが、その2枚に分けられた罹災証明書を見るなり市役所の人が悩み始めたそう。

持ち主が、M市在住のおじさんおばさんなら、M市でゴミは処理してもらいたい、ここに住んでいない人の持ち物をここで処理する必要はないと言い出したらしいのです。

ちなみにM市へは車で1時間半くらいかかります。

 

いとこのお兄ちゃんがそれに対して強めに抗議してくれたらしく、そもそもおばさん達のものになったのはここ3年くらいの話だし、母はここに生まれてからずっと住んで、住民税も払ってきて今もいるのに、その言い分はひどいんじゃないかと。

そして、いとこのお兄ちゃんの抗議によって、市役所側もなんとか考慮してみますとのことで、その日はそれで終わったそうです。

 

どうやらその2枚に分けてしまったことでの問題勃発で、いとこのお兄ちゃんは、消防署でも働いていたことがあって、今も後輩がたくさんいるため、かなり憤っていました。

これ書かせた隊長ってやつ、名前なんだった?○△!?あいつ、散々俺が世話してやったのに、俺のいとこだってわからないでやったんだな、一言言ってやる!!

結局、隊長がいとこのお兄ちゃんに怒られたのかは知りません。

 

その頃、私はまたおじさんと家の解体をがんばっていました。

元の形からすると、かなりの感じで進んではいましたが、やっぱり素人だし、重機とかも使っていない手作業。まだまだではあります。そもそものゴミも多いし。

 

その翌日は台風が迫っていて、おじさんも早めにM市へ帰ることにしました。明日は来ないとおじさんが言いながら、「ところでおまえは、こっちに帰ってくる気持ちはあるのか?万が一帰ってきたくて、また家を建てたいなら、いつでも言ってくれよ。隣にまた建てていいんだからな」と言ってくれました。

母が火事と言うとんでもないことを起こし、この期に及んでも平気で悪態をつき・・・それでもその娘である私には優しくしてくれるおじさん。

本当にありがたい言葉でした。

母と二人であることに、孤独を感じることもあったけど、やっぱりこんな風に親戚たちによって助けられて来たことを、思い出せました。

 

 

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火事後のライフラインの手続きあれこれ

ちなみにTおじさんの別荘にずっといさせてもらっているけれど、おじさんの別荘のお風呂が壊れているので使えません。

燃え跡の片付けもだけど、新旧の家の光熱関係の手続きも進めなければなりません。

火事の現場の実家の物は停止して、臨時で住ませてもらう部屋の物は使えるようにしなければならないのです。

水道やガスは手続きがすんなりできたものの、厄介なのは電気でした。

新しく契約する場合は、すぐには使えず、使用開始は4日後と言われました。

なので結局、まだしばらくおじさんの別荘にいさせてもらわなければなりません。

 

それで、電気の手続きにイライラさせられたのは、申し込みの電話では何も言われなかったのに、翌日になってメールで、住所が見つからないので予定日に使用開始できないかもしれない、その場合はご了承くださいという内容の物が届いていたのです。

ご了承くださいも何も、使えないと困るし、かなりいい加減だと思いました。

 

とにかく、電気の他にも市役所の色んな課との手続きの約束時間や、業者との現地での約束、後片付け、新居の準備、とにかく時間が足りないって言うのに、電話はフリーダイヤルで、イライラさせられるゆったりアナウンスが流れ続け、やっと繋がっても、”それはこちらの課ではできないので○○という所にかけ直してくれ”と言われる。

そして言われた通りの番号にかけても、”それは結局さっきのところに聞いてください”と言われ、またしてもゆったりアナウンスから。

やっと繋がって、”その場合は今度は□□と言うところにかけてください”。

他のことをやっているうちに電話がかかってきていたので折り返すと、”センターが違うからなんのことかわからない。××と言う者がかけたみたいだけど、こちらからは転送できないし、お客様がかけてもそのセンターに繋がるとも限らないです”(コールセンターが全国のいたるところにあってランダムで繋がるらしいです)

で、また1から説明。たらいまわし

そんな感じで、忙しいのに何時間も電気会社との電話に時間をとられ、最後はさすがにこちらもイライラしてしまいました。

 

ちなみに住所が見つからないメールは、機械での処理のためよく発生するらしいです。

それなら早くイレギュラー処理をそっちでして、連絡なりしてくれよと、電気会社に対しては、不満でしかありませんでした。

 

悲しかったのは、実家の固定電話を解約したことです。

生まれてからずっと使っていて、何があっても間違えることのないくらいに暗記しきった家の電話番号がなくなるのです。

母には、これからは携帯電話を持たせることにしたため、元の電話の基本料金を払い続けても仕方ないので、解約することにしたのです。

簡単に言える数字が、もう私とは関係のない数字になってしまうんだな。

その番号にかけても、もう繋がらないんだなと思うとなんだかとても悲しかったです。

 

電話線を撤去する日、作業を見守りました。

別に立ち合う必要はないと言われていたけど、見送りがしたくて立ち合いました。

作業員のおじさんは、凄く優しそうな笑顔で作業をしながら挨拶してくれました。

そんな優しいおじさんの手によって撤去されたのも、ちょっと悲しい気持ちを救ってくれました。

これはとても小さなことだけど、”火事さえ起きなかったら”、そんなことから派生することがたくさんあることを初めて知りました。知りたくなんてなかったけど。

 

実は、実家はちょっとややこしい問題があって、実家の持ち主は、おばさんになっているのです。

元々は、祖母が持っていた大きな土地を母達姉妹で分けて、私の実家の場所分は母の物だったのですが、母が土地にかかるお金などを払えないため、おばさんが母から買い取る形で土地はおばさんの土地となっているのです。

なので、また市役所の手続きもややこしく、まずは母とおばさんの関係を証明する書類を提出するため、除籍謄本をとりに行きました。(おばさんはおじさんの嫁となっているため)

そこには、私の祖母、そして会ったことのない祖父、その親や、私の会ったことのない母の大兄弟の人達の名前も載っていて、かなり興味深かったです。

 

そして、お見舞金を市役所からいただきました。

それから県と赤十字からも。

今はとにかく、お金をもらえることもありがたく。

でも母は金額を確認すると、「なんだ、それっぽっちか」と言いました。

この期に及んで、とにかく母には呆れっぱなしです。

 

それから新しく市役所から言われたことがありました。

それは、新しい住み場所に対して。

臨時で入れる所はあくまでも臨時であり、最長でも一年で出て行ってもらわなければならないと言うことです。

そして、母の場合、お金もないので市営住宅か県営住宅に申し込むことになるだろうけど、それは必ずしも、母に権利がもらえるとは限らない。特に市内の中心部ではなかなか空きが出ないということです。

車も運転できない母が、市のはずれになんて住める訳もなく。

だから、市営だけでなく自力でも探した方がいいとのアドバイスでした。

だけど、高齢の母が一人暮らし出来るようなアパートも見つかるとは思えません。

 

またひとつ、大きな壁が立ちはだかった気がして、この日から、母の住む場所のことを考え始めると、眠れない日々が続きました。

なのに母は、そんな私の事なんて微塵たりともわかっておらず、どこまでも能天気でした。

 

 

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火事から三日後、自力で家の解体を始める

翌日、朝早くからおじさんが自分の家からこの別荘に戻ってきました。

昔、自衛隊にも居たおじさんは、どうやら家の燃え跡を、なんとかできるところまで自分でやろうと思っているらしく、来るなり休みもせず、作業着にヘルメット、靴も履きかえると隣にある私の燃え跡に行き、解体作業を始めました。

おじさんは80代です。しかし、そんなおじさんのパワーはとてつもなく、あっという間にハンマーによって、柱に残ったトタンなどが外されて行きました。

もちろん私も、眺めているわけにはいかず、せめておじさんの手伝いをしようと、鉄くずや燃え残った木材などを一箇所にまとめ始めました。

 

おじさんは、怪我するなよと、お前はよく働いて本当に偉いよと、いつものように褒めてくれて、また少し救われる気持ちと、自力で始めたおじさんに尊敬の気持ちで頭が上がらない気持ちでした。

 

旦那と母は、燃えてしまった身分証や銀行のカードなどの手続きや、家の解体後の鉄や木材などの市の引き取りの手続きの為に市役所へと行きました。

そして、おじさんの手によって、その日は3分の1くらい、片付いて行きました。

どう手をつけていいかわからずにいたけど、おじさんが始めてくれて少しだけ、心がすっきりしてきました。

そして午後夕方前に、明日また来るよと言って、家に帰って行きました。

 

ところで、臨時で住める部屋を手配してもらったにせよ、家財は何ひとつありません。

でも、服はおばさんが大量にくれて、布団や大きめの家電等は、いとこのお兄ちゃんが持ってきてくれました。

飲み物に関しては、買う必要がないくらい、箱で持ってきてくれたりと、作業をするのにとても助かりました。

特に、こんな時は贅沢品だと思うけど、まだまだ暑さも残っていたので、扇風機はありがたかったです。

 

それから母の友人も何人か来てくれて、色んな差し入れやタオルや食器類を持ってきてくれて、それもまたありがたく。

火事の時に、一番に連絡をくれた私の親友も会いに来てくれて、お見舞金や差し入れが本当にありがたいし、何より彼女の気持ちが嬉しかったです。

 

ふと作業を終えて、Tおじさんの家に戻ると、火事の夜に泊めてくれた別のおじさんが、私達のごはんを作って持ってきてくれていました。

おじさんは相変わらず、自分のあげた布団のせいだと気にしていて、むしろ申し訳なかったけど。

 

もうずっと、地元を離れていたけれど、こんな時は特に地元の温かさを感じました。

 

 

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